なぜ仕事をする?
これまでに何度か転職をし、今、小さいながらも会社を経営していることは既出の通り。ではその仕事とは何か。
「生きることは食べること、食べることは稼ぐこと、稼ぐことは仕事をすること」
これも使い回された言葉だとは思うが、まさにこの「生きるため」以外にはない。
「楽しいから」「好きな仕事だから」「やりがいがあるから」と個々に色々とその目的はあると思うのだが、そのどれもが、何らかの形で働いてお金を稼ぐことが大前提であるはずだ。例えば、
「俺は農家だから食うには困らない」
という方もいるとは思う。だが、その他の多くの人間が、「何らかの職に就き収入を得て生きている」はずだ。
また話が脱線しそうだが、特にここ近年は、YouTubeをはじめ組織に属さずとも、下積みがなくとも収入を得ることが「誰でも楽に稼げる」という”空気感”があるように思う。確かに、WEBの世界が拡大したことで仕事も多様化し、PC1つで稼ぐことができる裾野は広がったと思う。ただそれは、メディアを通して、それでお金を稼ぐどころか富豪にまで成る人たちを見ているだけで、当然ながらそれがスタンダードではない。あなたの周りに、そのような職で稼いでいる人がどれだけいるだろうか?それが答えのように思う。
それが原因かどうかは分からないが、特に若い子に顕著だが”仕事”を軽視する傾向があるようにも思う。
- 「おれは(わたしは)この程度の人間じゃない」
- 「将来は社長になる人間だ」
- 「こんな仕事で収まっている人間ではない」
- 「将来は独立するんだ」
こういった思いは尊重したいし、今では希有な存在だとも思うが、それが
「会社に属さずに楽に稼ぐんだ」
という思いが背景にあるのであれば別だ。はっきり言って、そんなに簡単にお金が稼げるのであれば会社組織などとうの昔につぶれているし、社会のあり様も大きく変わっている。繰り返すが、あなたの周りの人間で楽をして(いるように見える人はいるかもしれないが)生きている人がどれだけいるだろうか。
目標
二十歳頃だったから、
「お金持ちは持っている人から頂く他ない。と仮定すれば、自分で考えうる最上級を知る必要がある。下しか知らないのに上は創造できない。上を知っていれば下も創造できる」
とある種の確信めいた思いを持つようになった。それは今40代になって間違っていなかったと思っているのは、その経験が色々なところで役に立ってきたと感じているからだ。例えば「デザイン」。形の好き嫌いは主観でもあるのでひとまず脇に置くことにして、良いデザインは確実に存在する。それは、何にし対してか”目的”にも多分に依ってくるものではあると思うが、身の回りのもの、道具や服、靴、車や住空間などと本当に多岐に渡って自分なりの価値観が醸成されていく。そしてその”デザイン”というそもそもの意味の「設計する」という概念は、特に仕事においてはそれがすべてと言っていいほどの関連性がある。
自分の経験のひとつひとつが、今の仕事にも確実に活きているのは間違いなく、それを直接ではなくとも教えられたのはやはり親に与えられた環境も強く関係しているように思う。
そんな思いを経て30歳までに、
- 会社を興すこと
- 家を建てること
- (あるメーカーの)車を買うこと
この3つを目標として掲げたのが20代の前半だったと思う。
結局、
- 会社を興すこと → 37歳
- 家を建てること →37歳
- (あるメーカーの)車を買うこと → 38歳
と、7年、8年遅れてしまったのは何とも情けない限りだが、運が良かったこともありなんとか目標を達せすることはできたのは本当に周りの方々のおかげだと思う。
さてそんな私にもたくさんの人生の転機があり、「デキる人間とは」という自分なりの定義をすることになる。
私の思うデキる人間
おかげさまで今までたくさんの人に恵まれてきた。クライアントにも当然異動などがあり、新しい方とまた新たな関係を築く度につくづく思う。そんな私の中にあって、私にもビジネスの師匠とも呼べる人間が3人いる。3者3様ではあるが本当に色々な場面で私の道しるべになってくれているのだ。その中の1人に言われたのは、
「何かあったとき、俺(その師匠)だったらどう考えるか?って考えてみな」
ということは事ある毎に言われてきた。自分自身が冷静になり物事を俯瞰してみることができるので、そのような方がいる方にはおすすめだ。
そして、その方々に共通していることが驚くほど多い。
- 誰に対しても極めて謙虚である
- 自分だけの言葉を持っている
- 人を信用しない(もちろんいい意味で)
大きなところではこんなところだろうか。これが私にとっての「デキる人」の定義だ。あくまで私が経験してきた中で感じた独断なのでご容赦いただきたい。
1については、言葉にすると簡単だがなかなかどうして実行することが難しい。仕事上、当然ながら「発注側:上、受注側:下」という構図になることが多い。それ自体は何の問題もく当然だとも思うが、これが対個人になってくるとどうしても齟齬が出てくる。どうしても態度に出てしまう人間も多くいる。これもその3人の内の1人に言われ私なりに気をつけていることとして、
「上限関係は当然あるが、プロジェクトが始まってしまえばパートナーとして対等。横柄な態度など言語道断」
と言うものだ。私も、例えば私が発注側であった場合、依頼先には決して「○○業者」という呼び方はしない。これは別に自分自身で決めていることなのでなんの決まりがあるわけではないが、「協力業者」「パートナー」として敬意を持っているからだ。
2の「自分の言葉」という表現は抽象的かもしれないが、1つは、自身が経験したことを自分の中で咀嚼し、自分の言葉で持って人に説明できる、と言うこと。もう1つは単に語彙を持っている、と言うこと。これはなかなか言葉にするのが難しい。ハウツー本、今ではコンサルタントと名乗る人間がそれこそ星の数ほどビジネス書を出している。私も20代まではそのような本を頻繁に読んでいたのでその効能のほどは知っているつもりだ。そのような人たちは、確信は無いがそういった本やメディアなどの受け売りではなく、まさしく「自分の言葉でしゃべっている」のが分かる。言葉1つ1つに重みがあり、誰かの言葉を真似している訳ではないので、当然そこからの話の広がりもまさに無限なのだ。
3についてはマイナスの意味ではなく、語弊があるかも知れないが、「最後は自分で自分のケツを拭く」という意味でもあるかもしれない。あくまでも私の感覚的なものなので、これも言葉にするのが非常に難しいのだが、例えば採用について。当然会社組織なのでスタッフを採用するわけだが、過度に期待は絶対にしない。「来る者拒まず去る者追わず」と聞くと冷たく聞こえるかも知れないが、「ドライ」という表現とも違う、何ともそういった立場の人間に特有の感覚なのかも知れない。結局のところ、すべての事柄を大局観で見ているので、小さいことなど想定の範囲内で全く動じないのだ。長い人生、人から裏切られることも敵意を向けられることもあるだろう。その全てが、彼らにとっては「想定していること」なので、そうなった場合の対処もできるし必要以上に感情的になることは無い。
この3つすべてを、私の行動の指針にしている。
強く言いたいのは、その全てが「生きる」ことに私が必要だと思い取り入れていることで、その生きるとは「仕事をする」ことだと思っている、ということだ。
なぜこのブログで、「無職の一人親」に敵意を剥き出しにしているのか、その片鱗がお伝えできれば幸いだ。
次回以降はその「なぜ仕事をするのか」ということについて、具体的な例を出して述べていきたいと思う。