【コラム】論理的思考


論理的な人とは


「論理的な人」「理論的な人」とはよく対比のように使われる表現だが、この言葉を聞いてどのような人物を思い描くだろうか。

過去、転職活動の最中あるコンサル業の面接の際、社長からまさにそのような質問を受けた。

「あなたは論理派ですか?理論派ですか?」

私はそのときぼんやりとした”イメージ”でしかそれらを考えたことはなく、とっさに「どちらかと言うと理論派です」という答えをしたと思うのだが、そのあとに「なぜなら」と理由を付け加えることができなかったので、まず間違いなくその社長には「こいつ、よくわかってないな」と見抜かれていたと思う。

さて「論理的」定義だが、Googleによると、

「論理的:正しい)論理にかなっていること。「―におかしい」。理詰めに考える態度であるさま。また、論理に関していること。」

同じく「論理」とは、

「論理:議論の筋道・筋立て。比喩的に、物事の法則的なつながり。」

とのことだ。

 

ここでは、

「物事の関係を整理して筋道立てること」

 

と定義させて頂く。

「論理的思考」「ロジカルシンキング」などは使い古された言葉かもしれないが、特にビジネスにおいて、会議やプレゼンなどで、筋道を立ててわかりやすく相手に説明できる能力、すなわちこの「論理的思考」は必要不可欠な能力と言えよう。

「理論的」にも触れておきたい。

「理論:個々ばらばらの事柄を法則的・統一的に説明するため、また認識を発展させるために、筋道をつけて組み立てたもの。」

  • 「論理(logic)」: ものごとの法則的な繋がり。
  • 「理論(theory)」:個々の事実や現象などのプロセスが組み立てられた知識の体系。

ということで、そもそも「論理」「理論」は対になる言葉ではない。

何かの実例に基づいて話を進めていくような場合に用いられる比喩だが、自分が知っている知識に固執して頭でっかちになってしまったようなイメージだと思うと分かりやすいだろうか。



というわけでこの「理論的」という表現をなぜ取り上げたかと言うと、上記にも書いた通り、「ビジネスでは必須」、と言うことはすなわち、繰り返しになるが”仕事をしたことがない”人間には必要でもなければ、意識する・トレーニングする機会すらない、ということだ。これだけ見れば「だからなに?」という話で終わるわけだが、そのような人間が子どもを持つことの恐ろしさと、私の経験を書いていきたいと思う。

理論的の対義語とも表現される「感情的」




理論的の対義語として言われることの多い「感情的」という表現。まずはGoogleから。

「感情的:理性を失って感情に走るさま。興奮するさま。」

まさに読んで字のごとくだと思うのだが、理性よりも感情を優先して行動するさま、と言うことだろう。なぜこの感情的をわざわざ出したかと言うと、これもよくある表現で、「男性は理論的、女性は感情的」についてある女性と話をしていて何となく自分なりに分かったことがあったからだ。

  • 私「そもそも、理論的の反対は感情的とか言われるけど、男がみんな理論的、女がみんな感情的なわけでもないよねぇ」
  • 女「ん〜確かに、”そういう人がおおい”とは言えるかも知れないけど、それだけで決めつけるのは乱暴かもね。私もどちらかと言うと感情的だとは思うけど、例えば会社でも感情的になることはまず無くて、周りの環境や雰囲気なんかを考えて・・・」

と、ここまで話をしてふと気がついた。

そもそも「論理的な人 vs 感情的な人」では議論にすらならず、多くの場合、感情的になることの方がマイナスが多い。相手や環境などよりも優先するが故に思ったことをストレートに言葉にしてしまい場合によっては傷つけることもあるだろう。あくまで仮定だが、

「自分の能力ではその論理的思考の人とは対峙できないが故に”私は感情的だから”という言い訳をしている」

 

のではないか、ということ。確かにこれに限らず、人は何かにカテゴライズすることで”楽に”なることも多いので分からなくもないのだが、体験からして「絶対ではないが、あながち間違いではない」と確信しているのだ。


私の体験


最初に言っておくが、「理論的が絶対的に上」ということを言いたい訳ではない。誰しも感情的になる時はあるだろうし、思考が停止してしまうこともあるだろう。「理論的と感情的は同居が可能」なわけだから、どちらかに寄っていることはあっても、それ”だけ”の人間はやはり問題があると言わざるを得ない。ましては、それを言い訳にすることはある種の逃げであるはずなので、そこを指摘しているだけだ。

その私の体験談だが、夫婦関係が離婚モードになってから、相手方に言われたことがある。まだ会話がかろうじてあった初期のころ、

  • 私「そもそも、その無職の状態でどうするつもり?」
  • 相「そうやってすぐ理詰めで言ってくる」
  • 私「???」

繰り返すが、一言一句合っているかと言われると自信は無いが、もちろんこの会話もすべて事実だ。

かろうじて「理詰め」という意味が分からないが知っている言葉を使ったのだろう。確かに、論理的がすべて正しい訳でもないし、時には論理的”すぎる”ことによって相手によっては高圧的に感じられることもあるだとう。この点はマイナスだとは思うが、上記の会話で何が「理詰め」なのだろうか。ここからは推測だが、

「順序立てて会話をする=理詰め=高圧的」

 

という脳内変換が行われていると思われる。そして自分の中で「理詰め」というレッテルを貼ることで、

「理詰め=モラハラ」

 

という構図ができてしまったのではないかと想像している。上記でも書いた通り、確かに「論理的すぎて高圧的になる」場合もあったかも知れない。ただそれ以前に、会話をすることすらも拒み、自分の不勉強さを顧みること無く「理詰め」という言葉で逃げることは、やはり人間としてのスペックが低いからと言わざるを得ない。

なぜかと言うことを、実際に子どもたちに対して行っていた「考えの押しつけ」、そしてこれから予想されることを書いていきたいと思う。

感情的な人間の恐ろしさ




上記で、「筋道を立ててわかりやすく相手に説明できる能力、すなわちこの「論理的思考」は必要不可欠な能力と言えよう。」と書いたが、やはり仕事をしたことが無い人間の、仕事をしている人間に比べて圧倒的に劣っている能力としてこの理論的思考がある。例えば、これは親として非常に重要なことだと思うのだが、子どもに何かを伝える際の、

「周りの環境、その他の幅広い視野を持って説明する能力」

 

は、子どもに対する親の責任、とでも言い換えることができるかもしれない。

実施に相手方から子どもに対して言っていた言葉の例を挙げよう。

  1. 「○○(男のこども)は将来はお医者さんに”なりなさい」

  2. 「○○(女のこども)は、△△(習い事①)か、□□(習い事②)の先生に”なりなさい”」

もろんこれらの誇張の無い事実ではあるのだが、この「なりなさい」という言葉に、社会のことを何一つ理解していない人間性が垣間見えるのではないだろうか。

まずこの①について。

  • 「医者にする=自分が医学部に行かせる」というイメージが無い

相手方はただの一度も社会人になったことはなく、離婚直前までは

「”年収”50万円」

 

であったことは何度も書いた。未だに、自分の親に”育てて”もらっているからか、何にいくら必要で何の仕事だといくら稼げるのか、ということが実体験として何一つないから当然と言えば当然だが、子どもを医学部に入れる、ということを、「自分が行かせる」という親として当たり前のこととして考えることができていない。年金も健康保険も、ただの一度も自分で払ったことがないから仕方がないのかも知れないが、あまりに無責任すぎる。

そして②について。

  • 自分と同じ轍を踏ませようとしている=「あなたも無職でいなさい」と言っているに等しい

その習い事の一つが、相手方自身も「仕事」としてうたっており、

「月に1万〜2万程度」

 

稼いでいる?もののことだ。それが仕事かどうかの議論はこの際はどうでもよく、自身がその業界で「何者でもなく、何の実績もないにも関わらず」同じ道を歩ませようと思っているのだから、はっきり言ってこれは虐待だ。言い換えれば、

「あなたも自分自身の道を自分で決められない=他人に金銭的に頼る人生を歩みなさい」

 

と言っているに等しいからだ。

これが、無職の、そして感情的な人間の恐ろしさだ。これでもこの人間を、「かわいそうなシングルマザー」などと肩を持つそこのあなたに言いたいのだが、せめて自分に置き換えて、「無職の親に育てられたいと思うのか?」ということを問いたい。そして、この事実を知ってもなお私の批判するのであれば、是非とも理論的な説明をお願いしたい。

 

十把一絡げに「シングルマザーはかわいそう」などとしていることが、間接的に子どもを虐待していると知っても考えは変わらないのだろうか?



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