2.ことのはじまり

 

相手に対する負の感情


さて、どこから書き始めようかとなやむところだが、結婚に至る経緯などは今後書くかも知れないと言うことで、いつから相手方に対し不信感に似た、
「あ、これはダメだな」
という思いを抱き始めたか、それがおそらく離婚に行き着くまでの感情となったはずなのでそこから書いていこうと思う。(ただ、なぜ結婚したか、というところから問題は始まっていると思うので、やはりどこかのタイミングでそのあたりの事も書く必要があると思う)

相手方は、いわゆる”お嬢様”というものでないが、まさに”箱入り”という言葉がぴったりな人間だった(全くもって褒めてはいない)。

当初は実家暮らしだったが、それ(実家暮らしのこと)はあまり気には止めてはいなかった。ただ

  1. 20代半ばにして、
  2. 三流とは言え大学を出ているにも関わらず、
  3. さらに、特に理由があった訳ではないのに、

ただの一度もいわゆる正社員(もしくはそれに準じる立場)として仕事をしたことがなかった。

 

事に対しては、「大丈夫かこれ、、、」という思いがあったことは、今でもはっきりと覚えている。

その「無職」の状況は、信じがたいが離婚して親権を持つ今も変わらない。

この「仕事」については、それぞれ捉え方もあるとは思うものの、ここでは敢えて、

「正社員(もしくはそれに準じる立場)として組織に属し収入を得、税金・年金を納めていること」

と定義させてもらう。

「アルバイトでも20万稼いでいるんだから」
というような意見もあるかも知れないが、アルバイトとの決定的な違いは、「責任感」そして、「時間単位の労働ではない」ということに尽きると思う。

多かれ少なから組織に属して仕事をすることで、社会の枠組み、人とのコミュニケーションの方法、お金の流れ、マーケティング、、、など、仕事に対する意識の高低に関わらず嫌でも感覚的に理解できてくるようになる。そして、「税金について」「労働とは」「政治とは」「仕事とは」そして「結婚とは」「子供とは」「将来とは」、、、といった考えまで繋がっていく人生において非常に重要なプロセスだ。

当たり前だ。

「生きるとは食べること、食べることは仕事をすること」
とは私が思うシンプルな考えだが、仕事をしていない選択というのは、いわばあえて自分から「人生を不自由にしている」とも言い換えることができるかも知れない。

 

結婚への後悔と「講師」という仕事


私はこれまで公私ともに3千人ほどと名刺交換をしてきたが、社会に出たこともない人間と出会ったのは、後にも先にもこの人間(相手方)だけだ。
無論、身体的・精神的理由などで”働けない”人がいることは承知しているが、ここではそれは特殊なケースとして触れないことにする。

相手方に対してそのような”もやもや”を感じながら日々過ごしてわけだが、結婚前、相手方と「仕事」の話をしたときに「おや??」と思うことがあった。相手方は、三流とは言え、いわゆる「芸術系」の大学で楽器を学んでいたようだ。そしてその”先生”として、数人生徒がいたらしい。
そこであるとき、(相=相手方)

私「就職しようとは思わなかったの?」
相「卒業を考えたとき、美容師か音楽か悩んだ」

というような会話だったと思う。

このときに感じた違和感は結婚が決まった時も、もちろん結婚してからもずっと引っかかっていたのだが、今となってはその直感を信じて「結婚しなければよかた」と心の底から思う。基本的に振り返らない性格だと自分では思っているが、こと結婚に関しては

「心の底から後悔している」

 

さて、その時の会話に戻ろう。ここでいう「美容師」とは言わずもがな、立派な職業、仕事だ。だがこの「音楽」なるもの、相手方が学んだらしい楽器のことだか、これだけでは「仕事」とは言わない。ギターでもホルンでもピアノでもサックスでも、その名詞をして仕事と呼ぶことは基本的にはできず、その楽器をどう使って仕事にするのか、お金に変えるのか、ということが重要になってくる。ギターであればヤマハなどの企業に入り講師になる、というのが「楽器を仕事として」考えると出てくるイメージだったりするが、社会に出たことがある人は分かると思うが、この「〇〇(楽器やその他教室)講師」というのは、はっきり言って
しまうとこれだけではまず食べていけない。
考えれば当たり前の話だ。そもそも選ぶ側に立って考えてみると、玉石混交の上、良し悪しも判断しにくく、さらに競合も多い。得体の知れないものも跋扈しているような状況だ。
では、子どもに習い事をさせようと考えた時、皆どのように選ぶかというと、

・近所に教室がある
・子供同士が知り合いや同級生

ということが多いようだ。ここまでは想像もつきやすい話の流れだと思うのだが、この少子化が叫ばれる時代において、どのようにお客(=生徒)を確保していくかと言うことがまず問題になってくる。教室の場所、周りの環境も重要だろう。そしてその「自分の子どもの友達など」も有力なお客となるはずだが、逆に考えれば「その友達が教室を止めてしまえば生徒の確保は極端に難しくなる」と言うことだ。

・・・と言うように、「〇〇(楽器やその他教室)講師」というものを職業にするにしても生半可な考えでは仕事になどなるはずがない訳だ。

では、仕事にすることが絶対に無理かと言われればもちろんそんな事もなく、実際に「〇〇教室」だけで仕事として食べていっている人も周りにはいる。(ただこれも、はっきり言ってレアケースなので触れないこととする)

そこには、「〇〇(楽器やその他教室)講師」になるまでの「経緯」「想い」が問題ではないかと思っている。

相手方は仕事から「も」逃げた


すなわち、

「本当に責任を持ってその講師になり、仕事にしようと思っているのか?」

と言う事だ。初めから「講師」になることを目標にするのであれば、当然お金のことも知らなければならない。名声やハクも必要、海外への留学などもハクを付けるためには有力な手段だろう。マーケティングの知識やその使い方も重要だ。もしくは、最初は芸術家や表現者として演奏する・パフォーマンスすることでお金にしたいと思っていたかも知れないが、夢破れて講師にならざるを得なかった、というパターンだ。

いずれのパターンにしても、本当にそれに向き合っていたのか、ということが極めて重要になるはずだ。では、相手方のように、そのどちらでもない場合はどうか。私はその立場にないのであくまで想像だが、

「定職に就くことから逃げた」

これ以外に理由が見つからない。
先の「美容師」と「音楽」とを天秤にかけたと言う件も、

「美容師は学校に通って宿題も多くて、仕事に就いてからも夜も遅くて収入も低くて、、、じゃあ、今のまま、適当に近所の子供たちに教えて5万円でも稼いで
実家に寄生していけば生きていけるか、、、」

という思いが、無かったと思う方が難しい。別項でも書いていく予定だが、結局とのところ、仕事からも夫婦の会話からも何もかもから逃げ、自分で何も決められない人生を選択したのだろう。

そのような人間が、40も半ばに差し掛かり、これまた定義が難しいが、いわゆる「成功」「一発逆転」の人生を切り開いていけるのか。定職についたことのある方なら皆同じ答えだろう。

「人生、そんなに甘くない」

だからと言って、その「成功」の可能性がゼロだというつもりもない。もちろん中には定職に一度も就いたことがないにも関わらず主婦から社長になったような人もいる。ただこれも、上記と同様レアケースなので割愛させて頂く。

付け加えておくと、相手方の楽器の発表会のようなものに何度か足を運んだ(運ばされた)ことがある。当初は上手い・下手もよくわからず、まぁこんなものか、と思っていたが、今、公私ともに、演奏家、音楽家、歌い手、噺家、などなど多くの方と交流を持ち何度もそういったパフォーマンスを見ている身からすると、相手方は控えめに言っても

「極めて下手くそだった」

ことは間違いがない。これは、一緒に行ったこともある私の家族も同意見だ。このような関係性になったから相手方を貶めるためにそう言っているわけではなく、私も少なくともその当時よりは見る目・聞く耳も出来てきたからこその素直な意見だ。あなたなら、大事な自分の子どもに何か習い事をさせる際、そのパフォーマンスが著しく低い「講師」に任せたいと思うだろうか?

逆に、一気に引き込まれるパフォーマーも稀にいる。年齢やビジュアルに関わらず、文字通り聞く・観る人を「魅了する」ような人だ。相手方と比べてはいけないが、自身のパフォーマンスでお金を稼ぐことができるのはこういう人たちだ。

 

まとめ


長々と事実のみを書いたが、人生において「仕事」は極めて重要だということだ。幼少期に保育園や幼稚園に入り、コミュニケーションを学ぶ=生きていく力を養うことから始まる人間の成長において、その最終段階と言っても良い”仕事をする”ということ。
私自身仕事をし始めて転職をし、現在は小さいながらも会社を経営しているが、当たり前だか仕事をしっかりとしてきたからこそ収入も含めて将来のことを具体的に考えることができる。成長してきたと自信を持って言える。
これを経ずに歳を重ね、そんな人間が子どもを育てるという狂気、おぞましさ。
極めて自分勝手に離婚をし、自分ひとりも食べていけないのに
なぜ真剣を取り子供を育てることができるのか?

この結婚生活の不協和音はまさに、

「仕事に対する考え方」

に終始することとなったと今では思う。

参考までに、
■日本国憲法 第27条
すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、
法律でこれを定める。
児童は、これを酷使してはならない。

■日本国憲法 第30条
国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。

これをしない人間を、親として認めることができますか?
まさに、それを認めた裁判所しかり、狂気としか思えない。

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